昨日からの続きとなります。
〈 江戸時代 〉僧侶から次第に検校や別当、座頭といった職業音楽家を中心に、市井の演奏家の手へと移っていく。
江戸時代初期… 室町・江戸両幕府のもと保護されてきた盲人の自治団体「当道」。当時、筝は「当道制度」により盲人音楽家の専売特許であり、一般人が演奏することが禁止されていた。武家社会においては婦女子の嗜み ( お稽古事 ) でもあった。
「筝曲とは演奏することによって徳性を涵養しようとするものであり、決して娯楽の具とするものではない」とされていた筑紫流筝曲の流れをくむ八橋検校が現在の日本の筝の基礎を作り上げる。
( 箏曲の開祖八橋検校を偲び、箏の形を模した干菓子「八ツ橋」)
江戸中期… 八橋の孫弟子にあたる生田検校が、上方 ( 関西地方 ) で生田流を興す。三味線を伴奏とする声楽曲の地歌に箏曲を組み合わせて、合奏形式の地歌系箏曲を作る。
江戸時代後期… 生田流から後れること約100年、江戸で山田検校を始祖として山田流が興る。江戸で流行していた浄瑠璃や長唄、能の謡を参考に曲作りがされる。
裕福な商人の子女がお稽古事として琴を学び始める習慣も、町人文化が栄えたこの時代に定着したもの。
江戸時代後期に描かれた「三曲合奏図 ( 葛飾応為 )」、「浮世美人見立三曲 ( 渓齊英泉 )」等から、この頃遊郭や花柳界でも親しまれていたのが伺える。
「三曲合奏図」葛飾応為
「浮世美人見立三曲」渓齊英泉
〈 明治時代 〉
「 当道制度」が廃止され、盲人以外の一般人でも箏の演奏家になることが出来るようになる。
〈 大正~昭和時代 〉
「春の海」の作曲家宮城道雄(1894~1956)によって「新日本音楽運動」が始まり、西洋音楽の要素を取り入れた楽曲が多数作られる。
昭和四十年代頃までの花嫁修業が、お料理、お針(和裁、洋裁)、お茶、お花、お琴となる。
〈 その後… 〉幻の生き物「龍神さま」の化身である「お琴」は奏者、製作者共に衰退の一途を辿っている。
このまま「龍神さま」の元へ還るのか、或いは再び何処か新しい地を見つけて、生き延びていくのであろうか…。
※ 波乱万丈なお琴の歴史をお読み下さって、ありがとうございました。諸説ありますので、詳しい事は各自お調べ下さい。沢山のサイトから引用しています。尚、引用先は割愛させて頂きました。
※「私も知らないお琴の歴史」w。調べるきっかけを作って下さった某重要人物 A 氏と特に某重要人物 T 氏に心よりお礼申し上げます。楽しかった ! m(_ _)m
佐藤義久先生のお琴教室のホームページはこちら⏬⏬⏬
https://19carrollstreet.jimdofree.com